夏休み3日目 郡上八幡城/前編 @岐阜県

郡上八幡城つまり、山の頂上に到着した頃は汗だくでした。何せ、レンタサイクルを押して急な上り坂を登ったのでした。
 そして、肉体的にクタクタ状態のところに、血生臭いエピソードの数々を拝読して精神的にもクタクタになってしまいました。
 天守に登るのもどうしようか?って感じだったのですが、何とか何とか自分自身の背中を押しまくって天守に向かいました。

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赤谷山城の戦い ~郡上八幡城の創始~
 吉田川を挟んで向側に聳える山は赤谷山(東殿山)で、現在も石垣など貴重な遺構が残っている(赤谷山城跡)。赤谷山城は鎌倉時代より郡上領主であった東氏の東常慶により天文10(1541)年に築城された中世山城で、乙姫谷・地獄谷・赤谷といった断崖・急斜面に挟まれた天然の要害であった。
 戦国時代末期の永禄2(1559)年、東氏の家臣であった遠藤盛数が郡上支配をめぐり赤谷山城の戦いを起こした。八朔の祝い(旧暦8月1日)の席で暗殺された兄・遠藤胤緑の弔い合戦でもあった。その際、盛数が対岸のこの地に陣を構えたのが郡上八幡城の創始で
ある。8月14日遠藤軍1000人もの軍勢が赤谷山城を攻め、10日に及ぶ激戦の後落城した。ここに300年以上に渡る郡上領主の東氏は滅び、遠藤氏の統治する時代となった。
 東殿山という呼称は、江戸時代中期の郡上藩主金森賴錦により東氏の旧跡にちなんで呼ばれるようになった。
   平成29年10月製作
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力石
 この二つの石は、寛文7年(1667)城主遠藤常友が城を修理するため領内から多数の人夫を集めたとき、その中の一人である大和町の作兵衛(通称、赤髭)が城下の河原から背負ってこの地まで運び上げたものである。(重さ約350キロ·長さ約1メートル·厚さ約30センチ)奉行の村上貞右衛門がその力量のすぐれているのをみて激賞すると彼は感涙し、たちまち力尽きてその場で卒倒し息絶えてしまった。
 奉行は憐れに思ってこの石の使用を禁じたが、昭和8年(1933)に天守閣を建設する際この石が草の中に捨てられているのをみた古川七兵衛氏が作兵衛の心根が世に忘れられたのを嘆き、この地に碑として安置して顕彰しその礎石にこのあらましを記したものである。
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およし塚(人柱およしの碑)
 郡上八幡城改修の際に人柱となった、神路村(現大和町神路)の娘”およし”を偲んで建てられた石碑。
城山の 露と消えゆく 人柱」
【およしが祀られている場所】
・天守前(桜の丸)…悟竹院奥の院
・城山麓 善光寺…およし観音堂
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首洗い井戸跡
 この一帯は駐車場として利用されるまで、杉や雑木の生い茂った湿地帯で、案内板の立つほとりに1基の浅井戸が潰されていた。井戸のまわりには暮蛙が群棲し、昼も薄暗い陰惨な場所であった。
 今は埋立てられて跡かたもないが、その昔はこの浅井戸は「首洗いの井戸」と言い継がれ、慶長の合戦に際して討ち取られた寄せ手の名のある武士の血や泥で汚れた首が洗い浄められ、首実検に供されたという。
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by geiei | 2018-09-18 04:31 | 名所旧跡 | Trackback | Comments(0)

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