細川ガラシャの面影 @京都府
2013年 11月 15日
それで、勝龍寺城公園へ行ったのでした。
ちなみに、勝龍寺城公園の最寄駅はJR長岡京駅なのですが、駅の東側の道から南に続く道は「ガラシャ通り」と呼ばれているそうです。
勝龍寺城公園には、彼女とその夫の銅像があり、はるか昔を偲ばせてくれます。
勝龍寺城跡
勝龍寺城は、南北朝時代に京都へ進出する南朝方に備えて、細川頼春が暦応2年(1339)に築いたといわれる。
城は京都西南部に位置し、西国街道と久我畷を同時に押さえうる交通の要所に築かれている。
応仁・文明の乱(1467~1477)では、守護畠山義就(西軍)の乙訓地域の拠点となった。戦国時代になると、織田信長からこの城を与えられた細川藤孝(幽斎)が元亀2年(1571)に二重の堀と土塁をもつ立派な城に改修した。天正10年(1582)の山崎合戦では、明智光秀が城に入り、羽柴秀吉(豊臣秀吉)との戦いに敗れ、落城した。
ところで、この城は明智光秀の娘玉(細川ガラシャ夫人)が16歳で藤孝の子忠興(16歳)のもとに嫁いだところで、歴史とロマンを秘めた城としても全国に知られている。
城の中心部には本丸と沼田丸があり、その周囲に堀をめぐらしていた。北東の神足神社付近には、城の北方を守るためにつくられた土塁跡や空堀跡が残されている。
この城跡は勝龍寺城公園として整備され、平成4年春にシミの憩いの場としてよみがえった。これに先立つ発掘調査で、藤孝が回収した時代の石垣や多聞櫓が発見されるなど数多くの成果が得られた。その結果、勝龍寺城が鉄砲の時代に対応した先駆的な築城技術を用いた城で、石垣で築く近世の城に移る間際のものとして、わが国の築城史上でも貴重なものであることが明らかにされた。
平成4年3月 長岡京市