得生山善導寺@宮城県仙台市
2010年 12月 31日
由来を見ても何とも由緒正しいお寺のようです。
善導寺由来
当寺は得生山善導寺と号す。
天正5年(1577年)に伊達政宗公の祖父晴宗公の家臣横塚縫ノ助が主君没後、僧となって西蓮と号し諸国修行ののち、羽州米沢蓮池の傍に西蓮院なる庵を結び主君の菩提をとむらうをはじめとし、のち、天正の末(1590年頃)、正宗公の岩出山転封と共に寺も移り、さらに慶長(1600年頃)の仙台入府に従い移動をして現在の地に至る。
三世分波和尚の時本山に請うて善導寺と寺号を改めた。寛永19年(1642年)2月に得生院殿(忠宗公側室、綱宗公の生母)の遺骸を葬るに及んで得生山と号す。本尊は阿弥陀如来で脇仏として観音勢至両菩薩を安置する。同本尊は晴宗公の護持仏で政宗公から西蓮和尚に賜わったものといわれている。
境内には、前記得生院殿の墓があり、堂内にその位牌を安置する。また、名工として全国的に有名である仙台藩の抱工、本郷国包一族の墓がある。
秋の名残が、まだ残っていました。
刀工本郷国包各代の墓所 仙台市指定史跡(昭和55年10月20日指定)
仙台藩のお抱え刀工であった本郷国包の初代から13代までの墓所。その祖は大和保昌の末裔とも、またその一族が応永の頃(1368~75)に奥州に移住したともいわれる。13代までの墓所が同一の場所に現存するのは全国でも珍しい。初代の山城大本郷国包以下各代とも名工として全国的に有名であり、地元の愛好者には「くにかね」ではなく「くにがん」で通っている。特に伊達政宗のお抱えの刀工であった初代国包の作品はきわめて優れており、刃の鋭利さは虎徹をもしのぐと評され、国や県の指定文化財となっている作品も数振ある。
この場所はもとはこの寺の本堂の裏にあったが、区画整理事業にともない現在の場所に移された。
仙台市教育委員会
境内の中の名も知らない植物の葉っぱです。お陽様の光に当たって何とも言えない「明日」を感じました。
刀工として優れた技を持っていた方だったんですね。
光のあたった葉は新緑の色のようですね。
僕にとって新緑は力強く前向きなイメージがあります。
今年はありがとうございました。
来年もどうぞよろしくお願いいたします。
どうぞよいお年をお迎えください。
今年一年、大変お世話になりました。
簡単ではありますが、コメントを以て年末の挨拶とさせて頂きます。
来年もまた、何かとお世話になりますが、今後ともよろしくお願いいたします!
こちらこそ、ありがとうございました。来年も宜しくお願い致します。
こちらこそご無沙汰しております。そして、こちらこそ来年も宜しくお願い致します。