ANA国内線【PR】

カテゴリ:和泉式部

  • 薄墨の桜@福島県石川町
    [ 2010-09-21 06:17 ]
  • 金子山光国寺in和泉式部堂@福島県石川町
    [ 2010-09-20 05:15 ]
  • 小和清水@福島県石川町
    [ 2010-09-19 06:57 ]
  • 和泉式部庵跡と化粧の井
    [ 2006-01-21 18:47 ]
  • 髪盥石
    [ 2006-01-21 18:45 ]
  • 湯洗石
    [ 2006-01-21 18:43 ]
  • 神楽石
    [ 2006-01-21 18:41 ]
  • 黄金塚
    [ 2006-01-21 18:34 ]
  • 式部堂
    [ 2006-01-21 18:29 ]
  • 櫛上げ石
    [ 2006-01-21 18:27 ]
あれ?こんなところに看板が?以前からあったっけ?と立ち止まって見てしまいました。
 この場所、先日ご紹介した「小和清水」の直ぐ近くなのですが、本来の「薄墨の桜」は別の場所にあったのでしょうけど、春になるとここの桜も見事に咲きますので、桜を愛でながらいにしえの桜を思い浮かべるのも一興かと思います。


「和泉式部と薄墨の桜」
 石川町には和泉式部に関する伝承が数多く伝えられており、その謂れは全国に誇れるようなものです。その中でも、ここ曲木地区は和泉式部伝説の中心となるところで、式部はこの里で13歳まで暮らしたと言われている。
 金子山光国寺(字仲ノ内)に伝わる「金子山光国寺由来縁起 附和泉式部元祖物語」によれば、13歳の時に両親が亡くなり、この地を去ることになった式部は先祖の墓参りをしました。祖父を葬った時に墓の印として植えた一本の桜が大きくなっても花を咲かせず、墓参りのたびに、不思議に思っていましたが、式部は名残りを惜しんで次の2首の歌

 なげきにはいかなる花の嘆きぬられ見捨てる事の思ひしりなば
 故郷を今ぞわかるる旅ごろも身の行末は何国と那ん

を詠んだところ、たちまち青葉の中より薄墨を流しかけたような花が咲いた事から「薄墨の桜」と名付けたと言われています。さらに縁起によれば、光国寺の境内にこの桜の木があったと伝えています。また別説によれば、曲木の小松内には「桜坦の薄墨の桜跡」と呼ばれるところがあり、式部の父国安が毎春花見の宴を催したとも伝えています。
 福島県地域づくりサポート事業  式部の里づくり実行委員会



薄墨の桜はいまも咲きにけり身はふりぬとも名こそ栄ゆれ
 平成17年11月吉日建之 式部の里づくり実行委員会

小和清水の次に行ったのが、金子山光国寺にある和泉式部堂です。
 当時の村人が和泉式部の為に建立したと伝えられている和泉式部堂は小さなお堂ですが、和泉式部に縁があると思うと感慨深いです。娘達は小和清水については知っていたそうですが、ここ和泉式部堂は知らなかったそうで、しきりに感心していました。





石川町の和泉式部伝説と「和泉式部堂」
 平安時代中期を代表する女流歌人、和泉式部は「和泉式部歌集」正集・続集合わせて1540首が収蔵され、しかも「拾遺和歌集」をはじめ多くの勅選集に採られた歌は247首ほどあり、女流歌人では最も多く、とりわけ恋愛歌において日本和歌史上抜群の名作を残しています。
 この詠歌の世界に生きた和泉式部の書承・口承が石川町には多く残されています。
 石川町の和泉式部伝説の中核をなすのが、光国寺に伝来する「金子山光国寺由来縁起附和泉式部元祖物語之事」では、天元2年(979年)安田兵衛国康長者の一人娘として生れ、幼名を玉世と名付け、正暦2年(991年)京にのぼり、大友の久呂主卿の養女となり名も和泉式部と改め、一首を詠み、阿波の鳴門の鳴動を静めた功績により、大内への昇殿を許され歌所の頭人となったと伝えられています。
 和泉式部は晩年故郷、石川町に帰り、その生涯をとじたとも伝えられています。
 「和泉式部堂」は里人が和泉式部の徳を褒め称え、また御利益を授かりたいと願い、建立したと伝わっています。「金子山光国寺由来縁起附和泉式部元祖物語之事」では、「寛弘三年の秋奥州曲木の里は和泉式部の故郷なればとて近隣の男女打ち寄り御蔭堂を建立し如意輪観世音安置し奉る導師は光国寺住僧也」と記されています。
 光国寺も和泉式部の祖父掃部国光が亡父の尊霊菩提のため建立したと伝わり、和泉式部ゆかりの寺として知られています。






野木沢小学校の次に行ったのが、小和清水です。
 小和清水はオイラが小学校1年生の時に野外学習で最初に来た場所でもあり、その時に担任の先生は「ここの水の飲むと歌を詠むのが上手になるそうですよ。」と教えてくれたのを思い出します。当時は先生が何を言っているのかさっぱり分かりませんでしたが、平安のいにしえ人が関係している場所であればそのような言い伝えがあっても不思議ではないですよね。



和泉式部伝説とゆかりの史跡
 石川地方は平安時代の代表的女流歌人和泉式部の生誕の地として、ゆかりの史跡が多く残されています。
 和泉式部は王朝の華やかな時代に、紫式部、清少納言と並び称せられた、情熱の歌人です。
幼年時代を玉世姫と言い、この曲木の里の豪族安田兵衛国康の一人娘として生れ、小さい時からその美しさと豊かな才能は遠近に聞こえ、村人たちからも大変親しまれていました。
 13歳の時、京の都にのぼり、その美貌と歌人としての才能は当世を風靡し、後世に名を残しています。
 この小和清水は、式部の産湯として使われたところで、昔から和泉が枯れることなく湧き出ています。背後の丘は父国康の屋敷後(金子館跡)であり、近くの金子山光国寺は、その菩提寺となっております。その境内には、式部の徳をたたえて村人が建てたと伝わる式部堂があります。
 近くには、式部が京の都にのぼる記念に手植え、毎年薄墨色の華麗な花を咲かせたと言う桜坦の薄墨桜跡・湯洗石・髪盥石などがあります。
 少し離れて猫啼温泉の櫛上げ石、沢井の清水などがあります。
 晩年は生れ故郷に帰り、一人静かに生涯を閉じたと言われており、その墓跡と言われている古金塚もすぐ近くにあります。
 父国康夫婦が子宝の祈願をした関山満願寺、表郷村の式部庵跡、化粧の井などがあります。
 このように、平安時代の情熱の女流歌人和泉式部は、都から遠方のあぶくまの山々に囲まれたみちのくの里に生れ、静かに眠る伝説を今に伝えています。
 そっと耳をこらすと、平安の調べが聞こえてくるようです。

薄墨の桜はいまも咲きにけり 身はふりぬとも名こそ栄ゆれ

小和清水和泉式部碑


娘達は小和清水の水を飲んで涼を楽しんでいました。





「あらざらむこの世のほかの思ひ出にいまひとたびの逢ふこともがな」(百人一首)


山の上に続く道があったので、登ってみました。

白河の関にこの身はとめぬれど 心は君が里にこそ行け
 平成17年11月吉日建之 式部の里づくり実行委員会





地図

 平安中期の女流歌人紫式部、清少納言と並び称された、和泉式部の庵跡と伝えられる。
 和泉式部は石川郡真垣の息女として生を享け若くして上洛、勤勉し平安期随一の歌人となった。
 長久2年(1041)父国康の病が悪いため離洛し帰郷の途中、たまたま土賊隆起し、
道路が通行できないまま草庵を組んだ跡と伝えられる。側らに化粧ノ井という古井戸がある。


髪盥石 地図


和泉式部が京にのぼる途中で、この石の窪んだところに貯まった水で、
髪を洗ったそうです。
湯洗石 地図

石の窪んだ所にお湯を入れて、和泉式部の産湯にしたそうです。
毎年9月9日になると幣束をあげているそうです。
ここまでの伝説や儀式が残っている以上、他の地域でも和泉式部の
伝説が残っていますが、我が町が大本命と言えるのではないでしょうか!

神楽石 地図

和泉式部が幼い時に、この石に乗って遊んでいたそうです。

黄金塚(古金塚) 地図
この石塚には平安時代の歌人:和泉式部にまつわる伝説が残されている。
和泉式部はここからここから程近い隣村の曲木に産声をあげた。
幼少の頃より才媛に恵まれ、長じては敦道親王との恋に情熱を燃やして
京に上り歌道に精進し、そして数多くの名歌を吟じ女官式部に昇進した。
しかし、晩年に及んでは家郷に想いをはせて懐かしい曲木の里に帰郷した。
そして、小さな堂屋を建て、かたわらに草庵を結んでここで静かに生涯を閉じた。
里人たちは、和泉式部の死を悲しんでこの石塚に遺骸と愛用の品々を埋めて
手厚く葬ったと語り伝えられている。


朝日さす けやきの丘の石塚に 埋めし黄金千両万両(作者知れず)

昔、ここから程近い曲木に堂平という所があり、そこに一晩でお堂を建てて
くれれば大金を支払うという人がいた。これを聞いた大工達が準備を整えて
大急ぎで作業に取り掛かった。作業は順調に進んで夜半になった頃、つむじ
曲がりのいたずら者が夜明けを知らせる鶏の鳴き声を「コケコッコー」とまねを
して大工達を驚かせた。大工達は「もう夜が明ける。とても一晩では無理だ
なぁ」と諦めて作業を止めて帰ってしまった。その時に支払われる筈だった
大金をこの石塚に埋めてしまったということである。
この歌は、このことを詠んだ句であるといわれている。



※この塚を七回半、回るとお姫さまが出てくるという言い伝えがあるそうですが、意味が分からないです・・・
石川町の和泉式部伝説と「和泉式部堂」 地図

 平安時代中期を代表する女流歌人、和泉式部は「和泉式部歌集」正集・続集合わせて1540首が収蔵され、しかも「拾遺和歌集」をはじめ多くの勅選集に採られた歌は247首ほどあり、女流歌人では最も多く、とりわけ恋愛歌において日本和歌史上抜群の名作を残しています。
 この詠歌の世界に生きた和泉式部の書承・口承が石川町には多く残されています。
 石川町の和泉式部伝説の中核をなすのが、光国寺に伝来する「金子山光国寺由来縁起附和泉式部元祖物語之事」では、天元2年(979年)安田兵衛国康長者の一人娘として生れ、幼名を玉世と名付け、正暦2年(991年)京にのぼり、大友の久呂主卿の養女となり名も和泉式部と改め、一首を詠み、阿波の鳴門の鳴動を静めた功績により、大内への昇殿を許され歌所の頭人となったと伝えられています。
 和泉式部は晩年故郷、石川町に帰り、その生涯をとじたとも伝えられています。
 「和泉式部堂」は里人が和泉式部の徳を褒め称え、また御利益を授かりたいと願い、建立したと伝わっています。「金子山光国寺由来縁起附和泉式部元祖物語之事」では、「寛弘三年の秋奥州曲木の里は和泉式部の故郷なればとて近隣の男女打ち寄り御蔭堂を建立し如意輪観世音安置し奉る導師は光国寺住僧也」と記されています。
 光国寺も和泉式部の祖父掃部国光が亡父の尊霊菩提のため建立したと伝わり、和泉式部ゆかりの寺として知られています。

以上が、案内板に書いてあった内容です。


「和泉式部堂」は、現在の場所に明治頃に移設されたそうです。それまでは、近所の山の中に埋もれていたのを不憫に感じた有志が光国寺にお願いして移設されたそうです。
 また、和泉式部が京にのぼったとありますが、実際は父親が亡くなって叔父の家に身を寄せていた時に、塩商人にその賢さを認められて塩3駄(どれくらいの量なんだろう)と物身交換されたそうです。そして、塩商人が現在のいわきに戻った時に、京の呉服商人に更に転売されて、京にのぼったと言うことが、「金子山光国寺由来縁起附和泉式部元祖物語之事」に書かれているそうです。ちょっと、イメージとは違っていたので、驚きました。

櫛上げ石の地図

和泉式部が京へ上る途中に、この場所でこんこんと湧き出る清水を見つけ、
髪をすき旅の疲れを癒しました。この時に、櫛を置いた石がこの石だと言われ
いるそうです。

これを見たいと、猫啼温泉の井筒屋さんにお願いするとなぜか、旅館内の
見取り図をテーブルに置かれ、館内の道順を教えていただきました。
しかも、2階から見ると言うので2度ビックリでしたが、山の斜面のような
場所にある為に2階から見るようになっているようです。
ちなみに、和泉式部が京に上る時に、この場所に愛猫を残して行った為に
その猫は毎日啼き暮らした為に、猫啼温泉と名がついたそうです。また、
その猫は温泉に入って痔が治ったそうです。なんだか、笑っちゃいますよね。