へいほう石
2008年 05月 29日
車を駐車場に停めて詳しく看板を見てみると下記のようなことが書いてありました。ちなみに、「へいほう」とは、この地方の言葉で、お手玉のことだそうです。
へいほう石 直径:約50cm、重さ:約120cm
「へいほう石」の由来
ここは「下野街道の楢原宿」。寛永17年(1640年)の古絵図によると、東町22戸、西町22戸の宿駅でした。江戸時代参勤交代制の実施や商品流通の進展により交通・通信制度が整備された。ここも会津や越後と江戸を結ぶ重要な街道のなかの一宿駅として栄えた。今も当時を彷彿させる街並みが残っている。
さて、寛永のころ、この楢原宿に玄蕃(げんば)という怪力の持ち主が住んでいた。数ある怪力ぶりを伝える中の一つに「土俵の砂の中に小石が混じっていたので、指で砕いて砂にして播いた。」と言う逸話が残る。慶安元年(1648年)没。戒名「道教禅定門」は円福寺の過去帳に今も残る。墓石には「一誉道教居士」と刻まれているが、これは会津藩主からの授かりものと伝えられる。
お土産がわりの「へいほう石」
ある年、玄蕃は出稼ぎ先からの帰路、加藤谷川の川原で丸石を二個見つけ、「稼ぎは少なかったが、せめて村人をびっくりさせてやろう」とお手玉しながら帰ってきた。一個は、今も残るが、もう一つは明治10年代、新道開削の折、堀の石積みに組み入れられたと伝えられる。
木流し玄蕃の怪力ぶり
玄蕃は、もともと筏乗り木流しも業としていた。ある時、雨屋村(現会津若松市大戸町)の川原で釣人に出会う。「ちょっと待て」と声をかけたのは会津藩家老梁瀬三佐衛門。待てども釣れず、業を煮やした玄蕃は、七組筏を川原に引き上げがらがらと引きずった。
楢原下戸の酒三升
ある時玄蕃は藩主の前で、越後から力比べに来た男と相撲を取ることになった。初めての相撲ではあったが見事に相手を投げ飛ばしあっぱれぶりを発揮した。殿は褒美と酒を振る舞った。「酒は飲めるか」の問いかけに「下戸でございます。」と言いつつ、一升入りの大杯を三つ飲み干した。
どれも面白い話ですね。子供に聞かせよう。
私も下戸で~
本当に飲めないのに「豪傑は酒を飲むもの」として間違って後世に伝えられた「堀部安兵衛」のようだったかもしれませんし・・・
下戸とは本来酒も買えない貧乏人を表す言葉ですから、そこから会話を再現しますと
「酒は飲めるか?」
「下戸でございます。金が無くて酒なんか買えないし飲むなんてできませぬ」
「そうか、そうか、それなら今日は気にせず存分に飲め」
「ありがたくいただきます」
と、してがぶがぶ飲んだのか・・
想像が膨らみますね
昔の人は、凄かったんですねぇ!って、120kg×2個でお手玉ですからねぇ?どこかで話が大きくなったんでしょうけど、限度が・・・。
へぇ!?下戸って元々の意味はそうなんですか!はじめて知りました!!
ほー、へー。
両手でも持てない重さなのに、それをお手玉ですよ。凄すぎです!!
国道から直ぐのところにありますので、看板さえ見落とさなければ大丈夫ですよ。
宝石なら喜ぶでしょうけど、ただの重い石では・・・ですね。
お酒がお好きなんですか?でも、いくらなんでも3升は無理でしょう!