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四郎田淵、家老田淵

 昔、藤田城の藤田太郎光祐が公務の為に京の都へ上洛して留守をしていた時のこと、夫人の四郎姫は夫の光祐がいない寂しさから、常々よく心を尽くして仕えてくれる家老の一人と仲良くなってしまった。そして、夫の光祐が任期が満ちて近く帰るという知らせが届く頃、夫人は家老の子供を懐妊している事を知って、深く心に恥じ、毎日を悩み暮らしていた。
 ある日、自分の罪を悔い「生きて夫に合わせる顔のあらばこそ」と覚悟を決めた四郎姫は、家老共々死して主君に罪を詫びようと相談がまとまり、阿武隈川に投身することになった。
 家老は、先に城を出て阿武隈川へ行き、夫人は八歳になる子供を連れて後を追い、途中の八つ山の頂上に登った。そして、母子共々頂上の石の上に上って、遥かに阿武隈川を眺めると、家老は川辺にいて、四郎姫を待っていた。これを見て四郎姫の心の中は、この子供を一人ここに残して行くか、連れて行くか、迷っていた。
 四方を見れば春霞の中、あちらの峯には桜花が爛漫と咲き乱れ、見事な眺めである。四郎姫は遂に心を決めて「桜花を折って来てあげるから、ここで待つように」と、子供に言い含め、川岸に急いだ。
 一方、子供はいつ母が戻って来るのかと、石の上に立って伸び上がり伸び上がり、四方を眺めて母を求めて、泣きに泣いて母を呼ぶ声は誠に哀れであった(現在、この石を八つ石といい子供の足跡が点々と残っている)。
 こうして、四郎姫と家老は、共に身を躍らせて水中に入ろうとしたが、家老は家臣だからと、少し下方の淵に投身したという。
(現在、この四郎田淵、家老田淵を尋ねると、明新橋の下、約200mの阿武隈川に急流が大きな波をつくるその下方に紺碧の水を湛えて渦をまき、見るからに恐ろしい深淵である。川上を四郎田淵、川下を家老田淵と名づけている。)
 人々はこれを聞いて走り集まり、ここかあそこかと捜した所、この両方の淵に投身自殺を遂げていたので引き上げて見れば、両方の袂に石を入れ、投身の後浮かぶ事のないようにしていたという。里人はこの二つの石を「袂石」と称し、四郎姫が歓請し、信仰していた龍神様(現在の大錦積神社)に奉納して宝物としたという。この龍神様は出産の神様として、里の女房達の信仰を受け、今も龍神講と言う若妻の集まりと信仰がある。

矢吹広実さんが昭和54年に編集された「野木沢風土記 中野編」より
by geiei | 2006-01-21 18:52 | 伝説 | Trackback | Comments(0)

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by 鯨影
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