千利休屋敷跡 @大阪府
2013年 06月 12日
今現在は、ほぼ更地の状態でしたので、ここに屋敷があったことが不思議な感じがしました。
千利休屋敷跡
堺の豪商魚屋の長男として生まれた与四郎は初め北向道陳に茶湯を学んだが、更に道陳の師武野紹鴎に師事し、遂に「わび茶」を大成させた。
千与四郎は、茶名千宗易といい、織田信長・豊臣秀吉に茶頭として仕え、正親町天皇より利休居士号を賜った。また、壮年時には抛筌斎とも号していた。
天正15年(1587)10月秀吉の北野大茶会をつかさどり、秀吉に次いで二番の席をもうけるなど天下一の茶人として、茶器などにも種々工夫をこらし、わび・さびの境地をきりひらいた。その根底には、大徳寺の禅師に深く禅を学び、茶禅一味の悟りに達していたことが考えられる。その後天正19年(1591)2月秀吉の怒りをかい京都から追放され堺にて謹慎していたが、京都に呼び戻され同月28日尼子三郎左衛門らを検使として切腹させられた。この屋敷跡には、利休が茶湯に常用していたといわれる椿井が、また南宗寺には実相庵と称する二畳台目の茶席(塩穴寺より明治9年南宗寺に移築、第二次大戦で焼失昭和35年7月復典)がある。
堺市
椿井来由記
この地は、江戸後期から明治中期までこの場所で酒造業を営んでいた加賀田太郎兵衛が居住していた場所です。そしてかつては千利休の居宅や侘た庵のあった場所でもあります。「椿の井」という利休が産湯を使ったという井戸があり、ここに加賀田翁が居士を偲んで利休好みの茶室を建て、大徳寺の大綱和尚(大綱宗彦・大徳寺435世)を迎えて茶室開きをしたとき、和尚は利休の昔を懐かしむ心の茶室の銘として「懐旧」と名付け、利休居士にちなむ茶蹟としました。
この茶室は昭和の戦災も免れて、今京都の地にありますが、井戸のみここに残され、いまなお清水が湧き出て利休居士を偲ばせています。
このたび、桃山時代、千利休より再建された大徳寺山門(金毛閣)の昭和大修理の際に出た古材を用いて井戸の屋形を建て、そこに大綱和尚の遺墨「懐旧」を刻んだ扁額を掲げて、ここにその遺芳を伝えることとしました。
昭和53年春
大徳寺末孫比丘 立花大亀(511世)記