JR多賀城駅周辺の名所 @宮城県
2012年 10月 26日
末の松山
「末の松山」は、「君をおきてあだし心をわがもたばすえの松山浪もこえなむ」(「古今和歌集 東歌」)「ちぎりきなかたみにそでをしぼりつつすえのまつ山なみこさじとは」(『後拾遺和歌集 藤原元輔」)の歌で著名ですが、源信明、源重之、橘為仲など多賀城を訪れた官人(陸奥守その他)ともゆかりが深く、多くの歌人たちに親しまれた、みちのくの代表的な歌枕です。
「末の松山」の所在地について諸説がありますが、この多賀城市八幡説が最も有力です。
元禄2年5月8日(1689年 陽暦6月24日)松尾芭蕉は、塩竃到着(仙台から)ののち、「野田の玉川」「浮島」を経て、「末の松山」を訪れています。「おくのほそ道」には、
「末の松山は、寺を造て末松山といふ。松のあひ・・・皆墓はらにて、はねをかはし枝をつらぬる契の末も、終はかくのごときと、悲しさも増りて、・・・」
と「末の松山」に接しての感動をしるしています。「寺」とは、末松山宝国寺のことを指しています。
芭蕉の感動は、「末の松山」のもつ歴史の重みを無視しては考えられませんが、同時に「おくのほそ道」のこkの行文は、「末の松山」の歴史に、新しい1ページを加えたといえます。
「おくのほそ道」ののちも、芭蕉の足跡を慕って、多くの文人たちが、この歌枕を訪れており、その風潮は現在にも引き継がれています。
平成11年12月10日 多賀城市教育委員会
市指定文化財 沖の井(沖の石)
おきのいで 身をやくよりも かなしきは
宮こしまべの わかれなりけり
古今和歌集 小野小町
わが袖は しほひにみえぬ おきの石の
人こそしらね かわくまぞなき
千載和歌集 二条院讃岐
沖の井(沖の石)は、古来歌に詠まれた歌枕であり、今もって池の中の奇石は磊磊とした姿をとどめており、古の情景を伝えています。
江戸時代の元禄2年5月8日「おくのほそ道」の旅の途中、松尾芭蕉と同行者の曽良は、この地を訪れました。
また、4代藩主伊達綱村の時代には、仙台藩により名所整備が行われ、手厚い保護を受けていたことが知られています。
平成11年12月10日 多賀城市教育委員会
色んな街でコミュニティバスを利用させて頂いていますが、殆どの場合はオイラの貸切になっています。PR不足なのかな?