麦の別れ@川崎
2010年 10月 30日
先日の青山の善光寺に行った際に、芭蕉の句碑が在る場所をいろいろと教えて頂いたので、またまた行ってみました。本当はこの場所については、最後に行くべき場所だったのですが、諸々の事情があって先に行くことにしました。その辺の事情については後日ということで・・・。
麦の別れ
元禄7年1694年5月11日(現在の6月下旬)に俳人芭蕉が江戸深川の庵をたって郷里伊賀国柘植庄へ帰る時、江戸から送ってきた門人たちと川崎宿はずれの現在の場所八丁畷の腰掛茶屋でだんごを食べながら休憩しました。そして最後の別れをおしんで「翁の旅を見送って」と題して各人が俳句を読みあいました。弟子たちの句にたいし芭蕉は
麦の穂をたよりにつかむ別れかな
と返歌し弟子たちの親切を感謝し麦の穂を波立てて渡る浦風の中を出立しました。川崎宿の八丁畷あたりになると人家はなくなり街道の両側は一面の田畑でした。このあたりによしず張りの掛茶屋ができ酒や一膳飯を売っていました。芭蕉はこの年の10月大阪で亡くなったのでこれが関東での最後の別れとなりました。
芭蕉の碑保存会 川崎史話小塚光治著より抜粋
芭蕉の句碑
俳聖松雄芭蕉は、元禄7年(1694)5月、江戸深川の庵をたち、郷里、伊賀(現在の三重県)への帰途、川崎宿に立ち寄り、門弟たちとの惜別の思いをこの句碑にある
麦の穂をたよりにつかむ
別れかな
の句にたくしました。
芭蕉は「さび」「しおり」「ほそみ」「かろみ」の句風、すなわち「蕉風」を確立し同じ年の10月、大阪で、
旅に病んで夢は枯野をかけめぐる
という辞世の句をのこし、51歳の生涯をとじました。
それから130年余年後の文政13年(1830)8月、俳人一種は、俳聖の道跡をしのび、天保の三大俳人のひとりに数えられた師の桜井梅室に筆を染めてもらい、この句碑を建てました。
昭和59年10月 川崎市教育委員会
句碑の場所から、JR川崎駅から歩いて行くと何かビルの柱が、こんなデザインになっていた。